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アカデミー賞に輝いた「おくりびと」と納棺夫日記

「すべての人の思いが大きな花を咲かせた」。

第81回米アカデミー賞が決まった23日(日本時間)、
外国語映画部門での受賞となった「おくりびと」で主人公の納棺師を演じ、
企画者としても映画作りに携わった本木雅弘さん(43)はそう語ったそうです。

本木さんは20歳代の終わりに、遺体を棺(ひつぎ)に納める仕事を記録した
青木新門さんの「納棺夫日記」を読んだ。

「死の世界をのぞくことで、生きるとはどういうことかを考えさせられた」
が、映画化までには10年以上が必要だったとのこと。

今回、納棺夫日記を読んでみましたので、書いてあることの概要を簡単に書いてみます。
第一章
・慣れない納棺
・死に携わる納棺は貶まれ、汚らわしいとされ、金のためにやっている人が多い
○死に携わっていながらほとんどの人が死と向き合っていない
・仕事の本質に向き合えば自ずと信頼もされるようになる
・生と死は対立したものと思いがちだが、みぞれのように変化するものである
・死が忘れさられ、生にだけ価値が置かれても矛盾は大きくなるばかりである

第二章
○よく美しく死にたいというが、そのイメージは人それぞれである
・死に直面した患者は、「がんばれ」と生への執着という価値観を押しつけられる
・死者は意外にも安らかな心で、ありがとうと言ったりする
○死んだらどうなるのか、分からない。現実の葬式ではいろんな考えがごちゃ混ぜになっている

第三章
○親鸞などの過去の宗教家は実体験を大事にするが、学者は頭で考える
・光に合うと生死を超越することが出来る
○宗教は科学的であれ
・現場の知こそ重要

ここでは○をつけた4つの箇所について、少し引用してみる
○死に携わっていながらほとんどの人が死と向き合っていない
葬儀屋から、からまれて次のように言われる

「お前も納棺夫をしているから分かると思うが、こんな仕事は金にでもならなかったらやっておれるか、お前も相当稼いでいるんだろう」


 職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である。
 昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今日では花形になっている。士農工商と言われていた時代の商が、政治をも操る経済界となっている。そんなに向上しなくても、あらゆる努力で少なくとも社会から白い眼で見られない程度の職業に出来ないものだろうか。
 おそらく葬送という行為は、今後も人類があるかぎり、形が変わっても続いてゆくだろう。そうであるなら何とかすべきである。
 自分の父や母が、日頃白い眼で見られているものの世話になって人生の最後を締めくくるのも、おかしな話である。
 過去のある時代には、人を救う職業として尊敬されていた僧職者も、葬式に深く関わったばかりに、葬式坊主と疎まれている今日この頃である。


 仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶たちと合っているうちに、彼らに致命的な問題があることに気づいた。
 死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしているのである。
 自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは、職業の社会的地位など望むべきもない。それでいて、社会から白い眼で見られることを社会の所為にし、社会を恨んだりしている。
 己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない。
 嫌な仕事だが金になるから、と言う発想が原点であるかぎり、どのような仕事であれ世間から軽蔑され続けるであろう。



○よく美しく死にたいというが、そのイメージは人それぞれである

人は誰もが、死ぬ時は美しく死にたいと思っている。しかし美しく死ぬとはどのようなことなのか、はっきりしない。
 苦しまないで死ぬことなのか、他人に迷惑をかけないで死ぬことなのか、死後の肉体が美しいことなのか、格好よく死ぬことなのか、どのような状態を指すのか明確でない。
 死に方なのか、死後の死体の状態なのか、その区別さえあいまいなのである。まして死体の処理方法まで、死のイメージに連なってくると、わけが分からなくなってくる。


 私の紹介した方が献体登録されたある日、
「君、ありがとう、ところで君、どう思うかね。今、しらゆり会に登録されている人の五十パーセントはクリスチャンだよ、信徒一パーセントにも満たないこの地でだよ。<われ閉眼せば加茂川に入れて魚にあたうべし>と言ったのは親鸞だろう。その親鸞の浄土真宗の信徒が八十パーセントの北陸でだよ」
 M先生は、学者らしく数字をあげて、熱っぽく話しておられた。


とにかく、人間の描く概念は、一度固まると、てこでも動かなくなってしまう。
 美しい死のイメージもまた同じである。
 美しい死のイメージと言っても、その人の世界観や宗教観や美意識などで、一人一人違ってくる。その人を取り巻く風土や社会によっても違ってくる。
 だから、普遍的な美しい死に方など規定できるものではない。


 それどころか今日の医療機関は、死について考える余地さえ与えない。
 周りを取り巻いているのは、生命維持装置であり、延命思想の医師団であり、生に執着する親族たちである。
 死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぽっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることとなる。
 誰かに相談しようと思っても、返ってくる言葉は「がんばって」のくり返しである。


 折角楽しく見ていたテレビ画面のチャンネルを無断で変えられるようなものである。
 <生命を救う>という絶対的な大義名分に支えられた<生>の思想が、現代医学を我がもの顔ではびこらせ、過去に人間が最も大切にしていたものを、その死の瞬間においてさえ奪い去ってゆこうとする。
 美しい死に方どころでないのである。



○死んだらどうなるのか、分からない。現実の葬式ではいろんな考えがごちゃ混ぜになっている

 会葬者も、遺体に合掌したり、遺影に手を合わせたり、祭壇や霊柩車に合掌したり、火葬場の煙突の煙にまでに合掌したりしている。
 ところが、肝心のご本尊にはあまり手を合わせていない。
 僧侶の唱えるお経は、何を言っているのか分からないし、死者がどこへ行ったか分からないから、思いつくまま手当たり次第手を合わせている。


 私が、この葬送儀礼という仕事に携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである。
 人々が、死をタブー視することをよいことに、迷信や俗信が魑魅魍魎のようにはびこり、入らずの森のように神秘的な聖域となって、数千年前からの迷信や今日的な俗信まで幾重にも堆積し、その上日本神道や中国儒教や仏教各派の教理が入り交じり、地方色豊かに複雑怪奇な様相を呈している。
 こうした葬送儀礼様式や風習が生まれる原因も、元はといえば「我々はどこから来て、我々は何で、我々はどこへ行くのか」があいまいであることから来ているのである。


 今日の仏教葬儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠いものであろう。極端に言えば、アニミズムと死体崇拝という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言過ぎではない。
 科学が、宇宙や生命の謎を解き明かそうとしている時代に、霊魂を信じるアニミズムが数千年前と変わりなく人々の心に巣くっている。そのことは、迷信や俗信の裏に霊魂の実在を信じる人間の自我が、絶ちがたく存在しているということにほかならない。
 釈迦は、当時輪廻説を説いたバラモンが霊魂の実在を信じていたのに対して、霊魂(自我)の実在を否定し、無我を縁起とした新しい仏教を説いたはずである。



○親鸞などの過去の宗教家は実体験を大事にするが、学者は頭で考える

 私は、この親鸞のとらえ方に、言い知れぬ感動を覚えた。そして親鸞の思想が、実践に裏打ちされていることを確信した。
 ここで、仏教は釈迦によって実践された宗教であって、観念的な理想や思想ではないということを再認識しないと、禅の<拈華微笑>にも似た<光顔巍巍>についての釈迦と阿難のやりとりは理解し難いだろう。
 親鸞もまた、大思想家であったが、その前に真実に生きた宗教家であったことを知るべきである。


裏返して言えば、己の死体を抜け殻扱いにできた者だけが、覚者といえる。
 釈迦の説いた仏教の教理は、すべて実践との関係のおいてのみ意義が認められているのであって、実践に関係の無い形而上学の問題には、釈迦は答えられていない。
 親鸞も、そのことを忠実に守って、真実に生きた求道者だった。



○宗教は科学的であれ

 確かに今日の科学は、哲学や宗教を乗り越えようとしている。とは言っても現在のところ、哲学や宗教が停滞しているためそのように見えるだけで、実際は科学で分かった範囲など微々たるもので、乗り越えるどころではないのである。
 しかし、科学は今後も急速に進歩してゆくことは確かで、将来「悟りの生化学的メカニズム」などという論文が現れたり「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って火中に座禅することも、エンドルフィン効果であると実証されるかもしれない。
 また、生命がいかに生成と消滅をくり返そうとも、DNAの遺伝子情報は不滅であることが分かってきており、仏教の輪廻の思想も分子理論で立証されてゆくかもしれない。
 やがて阿弥陀仏をも、科学が解明するかもしれない。


 所詮科学は、科学自身が持つ限界に気づき、引き下がるのは明白なのである。
 しかし今日のところ科学は、我々が想像もつかない遥か彼方まで歩を進めていることも事実である。
 量子理論の生みの親シュレディンガーなどは、
 主体と客体は、一つものである。それらの境界が、物理科学の最近の成果でこわれたということではない。なぜなら、そんな境界など存在しないからだ。
 と言い、今日の最先端のをゆく科学者は、この世界が一如であると、とらえはじめているのである。


 我々は流転三界の中にあって、絶対不変のものを宗教に求めようとする。
 礼拝の対象が滅びたり、変化されては困る。不信の原因になってしまう。信は絶対を求めるのである。
 どんな宗教でも、宗教が教団化されると、信の対象を人に伝える方便が時代に合わなくなっていても、触れてはならないとなってしまう。ローマ法王が「ビッグバンそれ自体を探求してはならない」といったようにタブーとなるのである。
 その点、親鸞は見事であった。



よく勉強しておられることがよく分かる文章でした。
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